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燈明崎山見跡

燈明崎(燈明崎山見台・狼煙場跡)

燈明崎は、その昔、「室崎(ムロザキ)」と呼ばれていましたが、いつしか「太地崎」に変わり、寛永13年(1636)10月13日、新宮藩から派遣された士分(武士の身分)が常駐する鯨油を利用した燈明灯台が設置されてからは「燈明崎」となりました。
ここには古式捕鯨を偲ばせる狼煙場跡や復元された山見台・燈明灯台があり、太平洋を一望することができます。
また、太地は昔「室崎」または「牟漏崎」とよばれていたことが紀伊国続風土記などの文献にあることから、和歌山県の東西、三重県の南北にある「○牟婁郡」の由来はここにあるという説もあります。

海から見た燈明崎

燈明崎は太地湾の先端にあたり、半島に突き出た岬になります。

海から見た燈明崎と漁港

燈明崎山見台跡

山見台跡 山見台というのは、太地古式捕鯨では総指揮所のことで、別名「めがね」とも呼ばれていました。
広い洋上で鯨を追い、網を張り、突き捕るには全体を見渡せる位置から総括し、適確な指示が必要となります。
それらの指揮、伝達など全てを司る重要なところが山見台で、この条件にあった燈明崎と梶取崎の突端にあり、その中心は燈明崎山見台で、他にも連絡を主とした向島(ムカエジマ)と高塚がありました。

燈明崎の山見台は沖に鯨を発見したり見張り船から鯨発見の信号をうけた場合、それらを支度部屋の山檀那(ヤマダンナ)に知らせてその指揮命令を受け、沖の船団と交信しながら鯨を捕らしめる重要な任務を司るところで、山檀那をはじめ老爺(オヤジ)と呼ばれる相談役やその他およそ10名がその任にあたっていました。

古式捕鯨支度部屋

古式捕鯨支度部屋は、網取法が始まった延宝3年(1675)、燈明崎山見台よりおよそ20m手前に設置されたのではないかと推定され、古式捕鯨終わりの明治38年(1905)まで建てられていたといわれています。
ここには常に山檀那が控えていて、炊事も行われた他、鯨の接岸が少なくなったり捕りそこなった時には近くの観音様で大漁祈願をし夜に籠ることがありましたが、そんな場合にも使われていました。

山見台に勤務する人達は、いつも夜明け前にここに来ていて、山見台に上る前には大海原に昇る太陽を拝み、大漁と安全を祈り、寒くて暗い朝にはこの支度部屋で体を暖め、東の空が明るくなるのを待ったということです。

回り廊下もあり立派だったとされるその支度部屋も、今は木立の静寂の中に跡地だけがその歴史を留めています。

マップ

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