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石垣栄太郎氏がこよなく愛した故郷

1927年の石垣栄太郎、綾子夫妻目前に森浦湾を眺め、はるかに那智連峰を仰ぐ常渡の浜の雄大な自然環境の中にある太地町は、石垣栄太郎氏が生涯を通じてこよなく愛した故郷でした。

石垣栄太郎氏は1920年から40年代にわたってアメリカ画壇で活躍した画家でありますが、この記念館は、生前、社会の恵まれない人びとに温かい眼差しを注ぎ続けた石垣栄太郎氏の画業を、後生に伝えようと考えた彼の妻であり評論家として知られた石垣綾子女史が、私財と投じて建設し太地町へ寄贈されたものです。

当記念館は、単に石垣栄太郎氏の絵画を展示するだけでなく、さまざまな文化活動を通じて地域文化の向上に寄与し、さらに、太地町とそれをとりまく南紀のすばらしい海と自然とそこで暮らす人びとの生活を、歴史・文化・芸術との関連の中で多くの人びとに理解していただくことが、記念館を建設した石垣綾子女史の願いでもありました。

石垣栄太郎氏の略年譜

1893 和歌山県太地に船大工石垣政治の子として生まれる。
1901 太地小学校入学、父政治、移民として渡米
1903 (田中綾子、陸軍幼年学校物理学教授田中三四郎の二女として東京に生まれる。
1907 新宮中学入学。
1909 新宮中学退学、移民として渡米。
1910 カリフォルニア州ベーカーズフィールドボーイ、掃除夫などしながら日本人キリスト教会で英語を学び、聖書や社会主義関係の本に親しむ。
1914 カリフォルニア州美術学校に学ぶ。
1916 この頃より、絵画制作を始める。
(綾子、府立第一高女に学び、YMCAの英語クラス、バイブル・クラスに通って社会運動にふれる)
1917 片山潜を中心とする社会主義の研究会に加わる。この頃、マーガレット・サンガーやアグネス・スメドレーらとも交わる。
1922 (綾子、自由学園に入学。卒業後、社会主義への関心をつよめ、加賀豊彦を神戸に訪ねるが、運動の現実にふれ帰京。)
1925 日本美術家の団体画彫会創設に加わり、展覧会に出品。
1925 第9回独立美術家協会展出品の「鞭打つ」がニューヨークの新聞各紙で好評をえる。
1926 (綾子、外交官としてワシントンに赴任する姉夫婦とともに渡米。単身ニューヨークへ出る)
1927 綾子と識りあい、ともに、サッコ・ヴァンゼティ処刑の抗議集会に参加。
1927 ジョン・リード・クラブ結成。創立委員となる。
1929 田中綾子と結婚。この年、大恐慌始まる。
1933 モスクワのプレタリア美術展に「アメリカのコザックたち」「馬上の人」の2点を出品。
1935 ニューディール制作の一環としてWPAの仕事としてハーレム裁判所の壁画制作(1937完成)
1936 アメリカ美術家会議の創立準備委員となる。
1939 中国民族支援運動に加わる。
1941 日米開戦。敵国民として規制を受け、心労により病を得る。
1951 綾子よよもに帰国。東京・三鷹台に居を構える。
1955 岡本唐貴らと点々会に参加(1958まで毎回出品)。デッサン展を中央公論画廊で開く。
1958 1月23日死去。 

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