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「移民の子」、石垣栄太郎

石垣栄太郎と綾子 1929年栄太郎は製材所やレストランなどで働き、やがて画家になりましたが、描いたのは黒人、労働者、戦争犠牲者など、社会の中で虐げられている人々でした。栄太郎が彼らの苦しみを自身のものとして受け止めたのは、彼もまた「移民の子」であったからでしょう。
大正15年(1926)にニューヨークへ渡った綾子は翌年に栄太郎と知り合い、大恐慌が始まった直後に結婚しました。綾子はレストランなどで、栄太郎は骨董店で美術品修理などをしながら作画を続けました。片山潜ら在米の社会主義者と繋がりがあった栄太郎は、やがて反ファシズムを掲げるアメリカ美術家会議発足の呼びかけ人の一人となり、綾子もまた講演や執筆を通じて日本の軍国主義に反対するなど、二人は反戦運動に積極的に関わりました。 
日米が開戦すると、二人が強制収容所へ入ることはありませんでしたが、敵性外国人として監視の対象となりました。戦争の混乱の中で心労が募り、特に栄太郎の体調は悪化していきました。
戦後、アメリカ社会はソ連の勢いに脅かされ、やがて自由主義的な政治家、政府職員、学者、芸術家などが職を追われるようになりました。栄太郎と綾子も連邦捜査局から度々呼び出しを受け、ついに1951年5月に国外退去を命じられました。栄太郎は帰国後も健康を回復できず、わずか7年後に亡くなりました。綾子は執筆活動を本格化させ、女性の自立や反戦平和を訴える評論家として広く知られる存在となりました。

A Son of An Immigrant

Eitaro Ishigaki immigrated to Canada and the U. S. , engaged himself in working various jobs, and eventually became an artist. However, he depicted only oppressed people, such as Black people, laborers, immigrants, and war victims. He understood their experiences because he was a son of an immigrant who was also treated unfairly, time and time again. Ayako came to New York City in 1926, met Eitaro, and married him right after Great Depression started. She worked in restaurants, he continued to paint while repairing artworks in an antique shop.

石垣栄太郎の略年譜

1893 和歌山県太地に船大工石垣政次の子として生まれる
1900 父政次、移民として渡米
1903 田中綾子(石垣綾子)、陸軍幼年学校の物理学教授田中三四郎の二女として東京に生まれる
1907 旧制新宮中学校入学
1909 父に呼ばれ中学校を中退して渡米
1910 ワシントン州シアトルからカリフォルニア州ベーカーズフィールドへ移る. レストランのボーイや掃除夫などをしながら日本人メソジスト協会で英語を学び、聖書や文学に親しむ
1914 カリフォルニア州立大学美術学校に学ぶ. 片山潜に出会う
1915 ニューヨークに出てアート・ステューデンツ・リーグに通い画家ジョン・スローンに師事する
1916

ニューヨークの邦字新聞に文芸時評、随筆などを書く
綾子、府立第一高等女学校に入学.

1917 産児制限運動家のマーガレット・サンガーやジャーナリストのアグネス・スメドレーとの交流がはじまる
1918 片山潜を中心とする社会主義研究会に加わる
1921 綾子、創立したばかりの自由学園高等科に入学
1922 日系人美術家の団体「画彫会」に加わり展覧会に出品
1927 単身ニューヨークに出た綾子の訪問を受ける. 綾子と冤罪疑惑のサッコとヴァンゼッティの処刑に際し、抗議集会に参加する
1929 ジョン・リード・クラブ結成. 創立委員となる. 綾子と結婚
1930 メキシコ画家のディエゴ・マリア・リベラ、ホセ・クレメンテ・オロスコと交流、特にオロスコから影響を受ける
1933 モスクワのプロレタリア美術展に<アメリカのコザック><馬上の男>の二点を出品、作品はエルミタージュ美術館所蔵となる
1935 ニューディール政策の一環であるWPAの仕事としてハーレム裁判所の壁画制作に取り組む
1936 「反戦・反ファシズム」「文化の防衛」をスローガンに掲げるアメリカ美術家会議の創立に携わり展覧会委員となる
1941 日米開戦による心労で病を得る
1951 戦後のアメリカ民主主義を圧倒したマッカーシズムに追われ綾子とともに帰国. 東京都三鷹市に居を構える
1955 岡本唐貴らと点々会に所属
1958 1月23日死去

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