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和田の岩門
風化作用でできた石の門のようになった洞窟で、捕鯨を始めた和田家の先祖が屋敷を構えていたことから、「和田の岩屋」や「和田の岩門(セキモン)」などと呼ばれてきました。

古式捕鯨の開祖・和田忠兵衛頼元

「鯨が昼寝をするところ」と言われた太地の海

日本の国は4方海に囲まれ、太平洋側には暖流が北上し、北からは寒流が南下しています。 これは鯨が秋には北から南へ、春には南から北へと海流に沿って回遊するので、日本周辺の海域には昔から鯨が多くいました。それで、日本の各地では古くから鯨をとリ食料として利用して来ました。
さて、この太地の沖はちょうど鯨の南下と北上の通路にあたり、人々はこの沖を「鯨が昼寝をするところだ。」と言うほどでした。ですから、古くから太地浦をはじめ他の浦々などでは寄り鯨(鯨が傷ついたり弱ったりなどして岸辺に寄ってくること)などをとっていたようです。

捕鯨を組織化した和田忠兵衛頼元

さて、慶長11年(1606年)のことです。太地の郷士(村に土着した武士)、和田忠兵衛頼元は、この捕鯨の有望性に着目し、泉州堺の浪人伊右衛門と、尾張師崎(知多半島の南端)の伝次とあい協力し、突き取り法による捕鯨を始めました。それは、縄をつけた銛を用い、刺手組五組(突船5隻を1組とする5組)を組織する捕鯨法でした。
それまでは個人がお互いに助け合いながらしとめていたのでしたが、捕鯨法としてきちんと組織化させたのは頼元が初めてでした。当時としては実に画期的なことでありました。そして、このことは、わが国捕鯨が水産業として発展していく糸口ともなりました。
太地が古式捕鯨発祥の地と言われるのはこうしたわけなのです。

利益を還元

頼元は又、その運営に当って一組を村方の持ち分とし、利益をその人々に還元させました。頼元の働くものへの細やかな配慮を伺うことができます。そして、このような相互扶助の精神は町のうるわしい人情と風土を育む基盤ともなり、現在の水産共同組合設立の心として生きています。
頼元は、慶長19年(1614年)にこのすばらしい偉業を残し、その生涯を閉じました。

和田忠兵衛頼元の墓
和田忠兵衛頼元の墓(順心寺)

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