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脊美流れの絵

「背美の子連れは夢にも見るな。」
100名以上の村人が帰らぬ人となった、
捕鯨の歴史の上で決して忘れることのできない悲劇。

脊美流れ(せみながれ)

明治11年(1878)12月24日、子連れのセミクジラを追って沖へ出た太地鯨方の船団は遭難し、百名以上が行方不明となりました。

燈明崎山見の責任者であった和田金右衛門頼芳が残した記録『脊美流れの控え』によると、出漁から3日が過ぎた12月27日以降に数十名が帰還し、沖で何が起きたかを報告しました。船団は夜を徹して捕鯨に従事し、翌朝までにはクジラを仕留めましたが、はるか沖に押し流されていたため太地に戻るのに難渋していました。やがて西風が強くなり、日も暮れてきたので、船団は苦労して捕らえたクジラを切り離しています。陸を目指して必死に櫓を漕ぎましたが、多くの舟は漂流し、波に翻弄され、大勢が帰らぬ人となりました。

未曾有の惨事を後世に伝える「漂流人紀念碑」は、まず東の浜に建てられましたが、昭和34年(1959)に、平見地区に通じる坂道の中腹に移され、さらに平成14年(2002)に現在の場所に移されました。また順心寺には、鯨組宰領の子孫によって昭和29年(1954)12月24日に建立された「太地浦鯨方漂流殉難供養碑」があります。

平見地区に通じる坂道沿いにある漂流人紀念碑
漂流人紀念碑

太地港を望む
漂流人紀念碑付近から眺める太地港

順心寺境内の供養碑
太地浦鯨方漂流殉難供養碑
(順心寺境内)

和田金右衛門頼芳『背美流れの控え』現代語抄訳

明治11年(1878) 24日、雨天、北東風

午後2時前頃に三輪崎の網舟がやってきて、太地の勢子舟も旗をあげてクジラの発見を知らせた。やがて三輪崎の舟が網を掛けたがクジラは南へ逃げた。
クジラは太地の網に当たって太地湾の方へ逃げた。そのうち潮が速くなり、網が切れた。さらに網を掛けたが外れてしまった。親クジラに銛を打ち込んだが、夜になって沖の方が見え難くなった。舟の篝火が見えるが、だんだんと沖へ離れて行き、やがて見えなくなった。

25日、晴天、弱い西風、穏やかな海

燈明崎から船団が見えないので、高山へ行ったがやはり見えない。そこで小文次、林蔵、次郎平を樫の上へ派遣したところ船団が見えた。しかし沖へ流されているので、さらに高いところに登ると、ずっと沖に船団が見えた。暗くなってきたので皆で心配した。
夕方、直大夫の舟が戻ってきた。「今朝10時頃にクジラを仕留めたが、米と水がなくなったので補給するため帰ってきた」と報告した。伊豆のマグロ船などに頼んで米と水を届けてもらうことにした。

26日、晴天、強い西風

今朝も樫の上に行ったが船団は見えない。小文次、栄治、林蔵、魚切の粂八を妙法山へ、佐与平、友蔵を八郎ヶ峰へ、多喜平、林七、次郎平を樫崎へ派遣した。大騒ぎになってきた。

27日、晴天、弱い西風、穏やかな海

夜12時頃、要大夫の舟に乗った11人が大引のマグロ船に助けられ帰ってきた。要大夫が言うには、25日の夕方にクジラを捨て、陸に上がろうとするうちに夜になり、西風が強くなった。夜が明けても陸は見えず、綱で舟を結んだ。風に流されるうち、要大夫、富大夫、次郎大夫の舟が離れて、陸に打ち上げられた。富大夫の舟は櫓が折れたので他の舟に乗り移り、要大夫の舟も壊れたが、マグロ船が来て助けられた。他の舟がどうなったかは分からない。(後略)

支援事務所の開設

事故から間もない明治12年(1879)2月、太地村民の救済を目的とする支援事務所が和歌山市内に開設されました。発起人には、頭取の三浦三七をはじめとする第四十三国立銀行関係者が名を連ねています。事務所開設を報じる広告は、生還者数80名、行方不明者数107名、死亡者数を8名と記しています。なお『背美流れの控え』には、伊豆神津島に漂着した角大夫、沢大夫、升次郎の3名が3月18日になってから戻ってきたことも記されています。

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