太地とくじら太地町と捕鯨の歴史
古式捕鯨蒔絵(太地町くじらの博物館所蔵)
古式捕鯨発祥の地・太地
太地は古式捕鯨発祥の地として名高く、当地の豪族、和田家一族の忠兵衛頼元が尾張師崎(知多半島の突端)の漁師・伝次と泉州堺の浪人伊右衛門とともに捕鯨技術の研究を進め、慶長11年(1606年)太地浦を基地として、大々的に突捕り法による捕鯨を始めました。
その後、延宝3年(1675年)和田頼治(のちの太地角右エ門)が網取り法を考案したことによって太地の捕鯨は飛躍的に発展しました。
紀州藩の保護もあって、「捕鯨の本場太地」は天下にその名をとどろかせ、熊野灘の捕鯨は最盛期を迎えました。
しかし、明治に入って西洋式捕鯨法が導入され、鯨の回遊も減少するにつれ太地捕鯨は次第に衰退の途を歩みはじめましたが、「くじらの町」としての在り方はその後も変わらず、古式捕鯨の伝統を受け継ぎながら近海での小型捕鯨が続けられています。
また、南氷洋捕鯨のキャッチャーボートの乗組員として、町から参加する者も多く、優秀な砲手を多数輩出しました。
-
太地町ってこんな町
太地町は本州の南端、紀伊半島の東側。
黒潮躍る熊野灘に面し、霊場熊野の山々を後に控える、自然豊かで歴史と文化を継承する港町。
近くには世界遺産登録された熊野古道と霊場、日本一の那智の大滝などみどころもいっぱい。
太地町立の「くじらの博物館」では、小型クジラ・イルカなどとの触れ合い体験など、クジラを中心に新しい町作りに取り組んでいます。 -
大背美流れ(おおせみながれ)
明治11年、不漁の年末。
ようやく近づいてきた鯨は、「背美の子連れは夢にも見るな。」といわれる、気性が荒々しく危険な、大きな子連れの背美鯨。
激しい風雨のなか無理を承知で出漁し、夜を徹して仕留めたものの、潮流と荒天で100名以上の村人が帰らぬ人となった、今も語り継がれる悲劇。 -
和田忠兵衛頼元
日本周辺の海域には昔から鯨が多く、各地では古くから鯨をとリ食料として利用して来ました。太地でも、傷ついたり弱ったりなどして岸辺に寄ってくる鯨をとっていたようです。
慶長11年(1606年)、太地の郷士・和田忠兵衛頼元は、泉州堺の浪人伊右衛門と、尾張師崎(知多半島の南端)の伝次とあい協力し、初めて組織化した捕鯨を始めました。